村上春樹さんがシューベルトピアノソナタについて書かれている文章を読んだ。(「意味がなければスイングは無い」というタイトルの本の中の章の一つです。)


村上春樹さん(以下村上さん)は好きな作家の一人で、彼の書いた本や旅行記、エッセイ等はほとんど読んでいる。その村上さんが、私が一番好きな作曲家シューベルトについて書かれているのだから、読む前からレコ芸の音楽評論家が書く批評より興味を持ってしまうでしょ。


読んでみた率直な感想は、やはり面白かった。村上さんの書かれた小説から、彼の音楽の趣味とは感覚的に合わないだろうなと思っていたけど、視点というか感覚は近い事がわかって意外だった。もちろん全然違うところもあるんですが、それでもピアニストの音世界を感覚的に捉えて言葉にできる村上さんはさすがだと思う。ま、プロの物書きでしかも世界的な作家さんですから、今更私が言う事でもないですけどね。


そのシューベルトの作品と演奏に、村上さんが取り上げたのはシューベルトピアノソナタ第17番(D850 D-major)でした。私も大好きな曲です。村上さんは、文章の中で吉田秀和さんの表現を取り上げて同意しています。「これはシューベルトのほとばしる衝動そのものだ。〜」そして退屈になりかねない長大さだがあるとも言ってます。(もちろん村上さんはこのソナタが非常に好きで書いているのですが。)確かにそうとも言えますが、私はこのソナタシューベルトの作品にしては非常にナラティブでわかりやすいと感じます。シューベルトのピアノ作品は彼の心がそのまま反映されるので、抽象的な感情などが時間的に表現されたりする事が多いのですが、このソナタは彼の周りで起こった事象に対しての彼の反応・感動といった心の動きを感じ取る事ができるのです。


私がこのソナタを最初に聞いたのは内田光子の演奏ですが、彼女の演奏はこの作品を直感的に「わかっている」人の演奏だと思います。村上さんは内田光子の演奏を、何を演奏しても内田光子という人間が聞こえる、細部も構築も読みは凄く深いが演奏は恣意的〜、という様に表現しています。私は村上さんの言っている事もわからないでもないですが、どうしても「間違っている」というか「そうじゃないと思う」と感じるところがあります。それは、内田光子の演奏には「シューベルトと彼の音楽だけは何よりも特別で本当に愛しちゃってる」という魂があるということ。脳内に無二の親友が一人いるようなものなのです。彼女が弾くシューベルトの音楽を聴くとき、横に1人の人間がいます。それは内田光子ではなくて、シューベルトです。シューベルトの音楽を愛するということは、1人の大事な親友を愛するようなもので、彼の音楽を聴いている時は、彼が話している事を聞くようなものです。内田光子にとって、シューベルトというのは、彼女が「演奏家」ではなくて1人の人間になっている時いつまでも弾いていたくなる作曲家なのです。彼女が若い頃に果てしない孤独を感じていたときの友達はシューベルトでは?と思わせるようなものをシューベルトおたくの私は直感的に感じます。それは初めて会った瞬間に、将来の親友になる「同類だ!」とわかる出会いのようなものなのです。
その彼女が演奏した第17番はすごくわかりやすくて、シューベルトが言いたい事がはっきりとわかる。実は詳しく後から作品について読んでみると、この頃にシューベルトは旅行をしていたそうで、その経験が作品につながっているのですが、私には内田の演奏を聴いてそれが直感的にわかっていた。だから、内田光子はやっぱり「わかってる」んだ、と信奉してしまったわけです。1楽章に書かれているのは、音楽ではなくて、彼の感動。山の空気や景色に対する感動、2楽章は旅行の時に想う郷愁、3楽章は旅における自分に語る、4楽章は旅をして帰着する時に感じる愛着なのです。例えば第2楽章でシューベルトがだんだんと想いを強くするけど、最後に自分の心にすう〜っと戻って行く、こういう時の心の動きの「すう〜っと」を表現するのがシューベルトではもの凄く重要で、「単にフレーズが変化する」ごときではないのです。内田光子は、楽譜からシューベルトの心の動きを読んでいるのではなくて、同類として直感的にわかってるはずです。そしてそれを「完璧」に表現したいが為に「譜面の読みすぎ」「恣意的」と感じられてしまっているのです。なぜ、彼女は「完璧」に表現したいのか、多分それは自分の心の親友であるシューベルトの為に、そして自分の為にでしょう。村上さんはこの事を感じ取れてない気がします。もしかしたら、村上さんはこの内田の姿勢を「独り善がり」と捉えてるのかもしれません。私にとって内田光子は「自分と同じくらいシューベルトを好きなピアニストがいるんだ」と思える唯一の演奏家なのですが。ま、私がここで書いている事は結局のところ「単なる強烈な内田ファンによる戯言」と思われるかもしれません...


内田光子以外で、シューベルトをここまで愛しているというか、想っているピアニストは余りいません。シフはシューベルトをかなり好きで、わかっていると思えるふしがありますが、理解してながらも何かふっ切れてない感じが残る演奏です。村上さんもシフに関しては同じような感じを抱いているようで、そういうふうに思った人がもう一人この世にいるだけで不思議な感じがしました。あとはブレンデルをこの曲を感覚的にわかってないのでは、というような表現をしているのですが、まったく同感でおどろくばかり。私も以前から、ブレンデルシューベルトには大きなズレを感じていて、全然シューベルトという人間を理解していないなあ、というかシンパシーを感じないで「単に曲が素晴らしいから」ぐらいで演奏しているなー、と思ってたんですが、村上さん以外にそうはっきりとブレンデル批判をわかりやすく言った人はあまりいないような気がします。


村上さんのチョイスで面白いなあ、と思ったのはクリフォード・カーゾンで、村上さんはカーゾンの演奏を紳士的で好きだそうです。(私は、グレートギャッツビーが好きな村上さんらしいなあ、と最初から予測していた事ですが。)私はカーゾンこそが、何を弾いてもカーゾンで、どの作曲家もさらりと足取り軽く上品に弾いてしまうだけのピアニストに聞こえて、事に彼の弾くシューベルトなんかは「シューベルトを最も感じさせない」別次元の演奏にしか聞こえないのですが... ま、村上さんにとって「シューベルトの為に弾くんだ!」という信念を持った内田光子はある意味押し付けがましくて鬱陶しく、カーゾンみたいのはある意味、付き合いやすい人なんでしょうね。


さらに村上さんはリヒテルにも言及しています。「社会主義的な、一切の○○を取り払った演奏」と表現しているのですが、私もリヒテルシューベルトタルコフスキーの映画「ストーカー」みたいに、ある時点でループしちゃうような自己完結している恐ろしさを感じて、ちっともシューベルトらしくないと思っていたのでそこをはっきりと言ってくれて嬉しく感じた。だって、あんな演奏全然シューベルトじゃないのに世の中の多くのクラシックファンは「決定盤!」とか言っちゃってて今まで不思議に思ってたから。ま、そういう人達にとってシューベルトは単なる「天才の一人」とか「作曲家の一人」ぐらいなんだろうな。そのぐらいじゃあシューベルトを真からは理解できないと思う。シューベルトを心から好きでわかってる人は、シューベルトの音楽が続いてる時は「終わって欲しくない、いつまでも続いていて欲しい」ぐらいの勢いなんですよ。


後は、イングリッドヘブラーも「サロン的うんぬん」と村上さんは書いていますが。村上さんは、丁寧に表現してるけど、私なんかはヘブラーの演奏は「イギリスの田舎臭いバラの花柄のカーテンとソファがある居間で埃っぽいピアノを弾いてる」という感じです。残念ながらヘブラーの17番は聴いてないので、本当はこんな事言ってはいけないのですが、彼女の14番とかモーツァルトのCDは聴いた事があって、余りのひどさに本当に「■」ボタンを押したい衝動にかられました。今だに「モーツァルトならヘブラー聴け」とか言ってしまう人を見かけますが、そう言う人の家にはきっと厚ぼったい花柄のカーテンと古くさいオバサン趣味のソファがあって、そしてティーカップも...


長々と書いてしまいましたが、シューベルトの事になると私は止まらなくなる性質があって、しかも村上さんがレアな17番の演奏について書くから... しかもカーゾン内田光子以外はドンピシャって感じだったので、驚いてしまった勢いもあってついつい....すんません。こうなると村上さんがコヴァセヴィッチのシューベルト演奏をどう思っているかが知りたいですね。(D960、D959と楽興の時、その他小品しか録音はありませんが)私は内田光子以外では、コヴァセヴィッチの演奏に感銘を受けたので。ライブでもCDでも聴いた事がありますが、D960の第三楽章と第四楽章はもしかしたら内田光子より凄いかもしれない...
最後にですが、ここで書いた村上春樹さんの言及や表現はごく一部、私のフィルターを通して都合良くつままれた言葉です。私が曲解しているところもあるかもしれません。皆さんが実際に読まれる事をおすすめします。


てなわけで、ここまで読んでくれた人がもしいるのなら感謝です。